Crucify Me

壊れ行く自分自身を、自分は救うことは出来るか?大いなるテーマでは無いだろうか。人間讃歌的ですらあるな。

 

おれはそれなりの生活を望んでいたのに。休みなく夜中まで仕事を追い仕事に追われる生活なんて望んでいなかったのに。「それなりの生活」を求めるのはそれほどまでに非現実的なことなのか?或いは、罰せられるべき程に許されないことなのか?

 

ソープ嬢と性行為をした。彼女は良く訓練された接客態度の端々から、辛さをさりげなく、言動の端々に挟み込んできた。こう言うところがおれが娼婦にのめり込めないところである。ただ、今のおれも娼婦と何ら変わりはない。終わりの無いような仕事の連続に、身も心もあけすけに開いて、安く売り渡しているのだから、娼婦であるきみの方が対価は貰っているんじゃないのか?

 

「自分がこの世に生まれてきたこと」に対して、おれの意思は一切介在していない。何かあるたびにこう考えるところが、もはや30を迎えるおれが幼稚と言われ続ける所以だろうとは思うものの、それに対して自分自身を納得させる理由なんて何一つ見つかりやしない。私もまた娼婦なのだと思う。若い肌も、性的に気持ちの良い器官も持たない、廃品寸前の。

 

広い世界を見ることなんて望んでいないし、刺激ある日々も望んでいない。自身の成長もまるで要らない。それらはきっと自分の生活を穏やかにするための最低条件なのだろうけれど、その最低条件のために自分の望む生活を犠牲にするなんて。なんだか先送りしているだけのようだ。

 

生まれてきた意味だって、今生きている意味だって、きっと本当は何にも無い。何にも無いからこそ、見出そうとしてしまう。見出そうとして、自分の望んでいるものを未来へ投げ捨ててしまう。おれは今それが欲しい。そして死の直前まで。