雨の日にスニーカーで走るのは、スニーカーが濡れるから嫌なんだ

こうして特定の白紙につらつらと自分の心境を吐き出すから、そしてそれを目にするから、気持ちが憂鬱になるのでは?と、過去にSNSをやっていた時のメンタルの乱れ具合を思い出してみたりします。でもまあ、今の自分がなぜ憂鬱かなんて、きっと永遠に分からないものなのかも知れませんね。ジョギングと少しの筋トレで多少気持ちが改善してきながらも、ひょっとして糖質抜いてるのが原因なのかな?とかまあ、可能性だけは無限に考えられます。或いは、自分で強くあろうとするその心意気が原因なのかな、とか。心が不安定な憂鬱になっていて、裏腹に猛烈に女性とセックスしたくなっていて、これは自分なりの男性と言う性の発露であり、あくまで男性的な精神の不安定さの現れなのかなとか。

 

考えれば考えるほど、無限に現れる確かではない何かがたくさん出てきますね。

 

Bring Me The HorizonのMedicineをすごくよく聴いています。Crown The EmpireのBlurry (out of place)も、MZRYも。

 

LINEに残ってる過去に関わりがあった女性に、「元気?」とか送っています。もはやケモノですね。性欲の化身。脳みそがオチンチン。そして結局何にも反応は無くて、彼女たちとのささやかな関係は、ありし日の海に、木の枝で砂浜に描いたつまらない落書きのよう。今はもうとっくに波がそれらをすっかり消し去ってしまった。何も無くなった。綺麗なだけの砂浜に、かつてのささやかな落書きを思い出すのも年を取った証拠ですね。きっと。

 

きっと、これから先、どんどん、孤独に耐えられるだけの体力が無くなっていくのだろうかと感じます。身体つきだけは人生でもっとも締まって筋肉質になりましたけど、それ以外の私には、無常に歩み続けるだけの強かな時の流れに抗う何かなんてありません。

 

本当に、何年ぶりだろう、こういう気持ち。

 

仕事が忙しすぎて死にかけていたのは去年の始めの頃、身を刺す確かに強烈な寒ささえ問題にならなくて、それはそれで精神が終了しそうでした。その時に比べれば、今の私はだいぶ幸せなことでしょう。こんなつまらないことで憂鬱になれているのですから。

 

東京は疲れる。田舎は疲れる。そんなつまらない二項対立はそれでも、結局世界のどこにいても疲れるんじゃないのか?という疑問を投げかけてきて、その疑問はそのまま、むくむくと自分自身の存在の仕方に対する疑問へと成長していくようです。

 

夏になれば秋が恋しくなり、秋になれば冬が恋しくなって、冬になれば雪解けの春を心待ちにし、春になれば本能的な夏を羨む。まるで若くてピチピチな女の子のお尻ばかりを追いかけるおじさんのようですし、そしてその通りに、私は30歳になって、確かなおじさんになったのかも知れませんね。

 

色々とつらつら書きなぐりましたけど、とりあえずのところ、孤独の恐ろしさも加齢とともに成長するものなのだなと感じています。今現在の孤独よりも、この先10年後とかに迎える孤独が恐ろしくて仕方がありません。それはきっと、今の私では考えられないような道へと、私を誘うのかも知れないと感じたりします。日に日に起こる事件のニュースを目に耳にしてみてね。

 

今の私は5年前の私では無いでしょう。それを成長だと捉えたいのですが、10年後の私はどうなっているのでしょう。それを自分でコントロールしたいから今を頑張ろうと思うし、思うような成果を出せない度に憂鬱になるのは、そうした小さな挫折を続けた先にいる未来の自分が、今の私とは全く別の存在になっているかも知れないという想像が恐ろしいから。

 

私はあくまでいつまでも、私でいたいだけなのだけれど、あらゆるものがそれを許し続けてはくれない気がする。だからこそ私は毎日を頑張って生きなければならないのだと思っているし、それ故に朝にはこれから始まる今日が怖くて、夜には目覚めてから始まる明日が怖い。

 

そしてきっと、私が望む私なんて、1秒以上この世界に存在したことは無かったのだろう。万物は永遠に変わらないように見えるし、毎秒以上の速度で変わり続けている気も確かにする。