座ると音の鳴る椅子に無限兆回座るこども
非モテを自称することは、或いは自身を卑下することは、社会に参画するにおいて、何ともリーズナブルな、と言うかチープな名刺代わりのようなものなんじゃないかと思ってきた。社会に参画するということは、無限のような数の他人に関わることになるわけだけど、そこで自らを非モテだとか無能だとか自己卑下しながら他人と関わりを持とうとすることは、もうその時点である程度の社会性を有しているんじゃないのかな。みたいな。
私も昔は非モテだとか無能だとか自己卑下して他人と関わっていた。今となれば、それは単なる事実であって別に自己卑下でも無いような気もするけれど、まあ、それはそれで他人と数言分くらいの会話にはなったんじゃないのかなと思う。
今はもう、自分を非モテだとか無能だとかとして他人に紹介することすら出来なくなってきている。社会性が以前より欠落しているんだと思う。
私は単なる人間であって、それ以上でもそれ以下でも無いし、もっといえば私は単なる動物、単なる生物、単なる有機物、単なる存在…となっていって、どうにもこうにもな感じになってきてる。
黄金のような夕焼けに、雲が紫色に照らされて、果てしのない草原を、せっかちな風が踏みつけながら走っていく。そして舞い上がった青い匂いを嗅いでいたいし、風そのものを感じていたい。暑くもなく寒くもない。ただ心地良い、気待ちの良い、涼しさだけが感じられる温度で。
私はあなたのことが好きなのかも知れない。私はあなたのことが好きなのかも知れない。私はあなたのことが好きなのかも知れない。私はあなたのことが好きなのかも知れない。私はあなたのことが好きなのかも知れない。
これは1人に対して5回分では無くて、5人に対して1回分である。私は特に誰でも良いのだ。誰でも良いのだと言うほど誰でも良いわけでも無いのだけれど。例えば、ボストロールみたいな誰かはとても嫌である。
異性の誰かに対してロマンティックラブな心持ちで接することは、もしかしたらとても簡単なことなのかも知れない。いや、それ以外の他人に決して知られないようにすることとか、ロマンティックラブがロマンティックラブ足りえるための十分な演出性を要した各々の舞台装置に対する出費をなるべく低めにして節約することとかを考えると、めちゃめちゃ難しいのかも知れない。
私は何が言いたいのだろう。
言いたいことなんて何一つない。
ただ、言葉を紡ぐことを義務付けられている。ただただ、こうして何かの媒体に具体的な文字の羅列を表出させることはおろか、自分の脳内で何かを考えるときにさえ、言葉を紡ぐことを義務付けられている。そして、発した言葉の数だけ、羅列した文字の数だけ、私は死んでいくし、また蘇っていく。それは一度吐いた吐瀉物をまた口に戻す行為なのか、或いは、また一つ見たこともない絶品料理を口にする素晴らしい体験なのか、全く見当もつかない。
私が言葉に支配されているのなら、私は人間社会から逃げ出すことは出来ない。私の生活が基本的にお金に支配されていることと同じことだろうか。全く何もわからない。
私は生きている。ただそれだけ。
言葉も文字も捨てたいような気がしてる。性別も肉体も捨てたいような気がしてる。でも、ダメな気がする。ダメなんだ!こんな訳のわからないことをほざいていないで、もっともっと仕事を頑張って、お金を稼いで、異性にもアプローチしてちゃんと結婚をして、一人前にならなければならないんだ!
一人前とはなんだ?
そんなことをいちいち考えていてはいけないよ。
普通の人間として真っ当に生きたいのでしょ?
普通の人間とはなんだ?
そんなことをいちいち考えていてはいけないよ。
真っ当に生きたいのでしょ?
真っ当に生きるとはなんだ?
そんな自問自答も、もはや茶番みたいになってきた。だいたいのところ、その答えは既に用意されているみたいなものなんだ。何故ならその答えは自分自身が用意したものだし、それらの疑問は、その答えがある前提で自分自身が自分自身に対して呈しているものなのだから。堂々巡り。ただそれだけ。
人生30年。もっと普通の大人になっているのだと思っていた。ちょうど結婚とかしていたりね。
でも、そうではなかった。自分は、自分が考えていたほど無難に当たり前の人生を過ごせる存在では無かったのだろうし、人生は、自分が考えていたほど無難に過ごせるものでは無かったのだろう。人生の部分を人間社会に置き換えても、全く同じです。
鬱々としてしまっているなあ。何でだろう。でも、わからないや。考えれば考えるほど、原因に思えるもの、原因に感じられることが無限個あるんだもんね。。。