毎日欠かさず走るのなんのためやねん

最近、お金と女性に対する欲望が凄まじい。そして、その自身に湧き立つ不穏な欲望の現れに驚きつつも、それを鎮めようとして、私の生まれもったネガティブな性格もメキメキと成長していく。おかげで近頃は気分が良くない。鬱々とした気分である。

 

このような精神状態になるのは本当に自分で良く理解できると言うか、加齢とともに健常で一般的な社会人になろうと理性が心がけていく一方、思春期にイジメられて過ごし、その後も他人からの抑圧に抗い通すことが出来なかった経験を今でも忘れられなくて、動物的な本能のようなものが、いまになってグツグツと、かつて無数の他者に抑圧されてきた屈辱に対する怨念をマグマのように煮えたぎらせ、復讐の義なのかそれとも単に魔が差しているのかわからない、何とも荒々しい心持ちになることが少なくない。

 

まあ要するに陰キャ特有のものなのだろうし、だからお前はモテないのだと自分で自分に言い聞かせている。

 

一年近くジョギングしてて、軽い筋トレもしてて、さらに最近は軽い糖質制限もしたりして、かつて肥満のお手本のようであった身体はいまでは引き締まり、と言うか小学六年生の頃より体重が減っているが、てか小学六年生の頃と今でイーブンな体重の比較が出来るとかチビなのでは。チビである。

 

最近思い知っているが、ポルノとは完全なる一種のファンタジーである。例えば、めちゃくちゃ可愛い女性と1日中、ゴムをつけずに好き放題セックスが出来るとして、その状況を現実で体験したら、本当に素晴らしいだろうか?

 

せいぜい2時間楽しめれば良い方なのではないだろうか。どうせそのうち身体は疲れてくるし、精神もその女性に対する大小の気遣いにより疲弊し、3時間も経とうとする頃にはその状況は単なる苦痛にしかなっていない可能性が、決して低くない。もう走りたいだとか、そろそろ帰宅して筋トレしたいだとか、なってくるだろう。

 

実感をもって体験できないこともまたファンタジーなのだろう。職場には多数の、彼女らとセックスをすることを想像すれば難なくチンコが勃起する程度の女性達がいるが、私は妄想を一向に実現へ向かわせようとはしない。1にリスク、2にリスク、3,4にリスク、5にコスト。

 

リフクテイキングな人生を選択するのなら、テイクするリスクは吟味とか精査とかしようの委員会がたぶんこの世にいくつかあるよね。

 

停止した感情機能の300mほど後ろの方で、本能らしきものは滾り、諦観のようなものはそれをたしなめている。どちらにしたって。

 

お金のために働かざるを得ないから私は支配されている。家賃を払うために、年金だとか、住民税だとか、ね。そして、言葉に雁字搦めにされている。言葉から逃げたくて、こうして言葉を意味もなく投げ捨てている、私は何がしたいのだろう。

 

肉体からも、性別からも逃げられない。それは監獄であり、或いはシェルターである。自由な世界を歩き出せば、1秒で他人に殺害されるのであろう。

 

そろそろ良いだろう。この魂を、肉体から、精神から解放してみたら?と、私の中の誰かが言うような気がしている。

 

確かに良いかも。この魂も、肉体も、精神も、言葉も、どうせハナから私のものではないのだし。

 

この30年間ずうっと頭の中の脳みその中に存在し続けていた私と言う存在、それが本当は存在していないことには気がついていたつもりだが、だからと言ってどうすると言うこともできない。今日の私がサラダを食べたからそうなっている私なら、明日は肉ばかり食べれば、明日の私は今日の私では無い。しかしながら、1秒毎の自我の連続性が、サラダの私と肉の私を断絶しないのだ。

 

金、成長、永続、恐るべき資本主義社会。共産主義だって同程度には恐ろしいさ。あな恐るべき人間社会。私の目の前に立つお前は私であり、私はお前だ。そして私は私ではない。ただそれだけのこと。ただそれだけのことを、気の遠くなるほど長い年月、1秒毎の連続性で紡いできたのだ。人類は音楽か、人間社会とはオーケストラか。

 

死に行くために死に行く死に幸あれ。