肉と野菜が無限に盛られたラーメンを食べたい

私は独身だ。いまは30歳で、このまま10年、20年と時が過ぎたら、世を騒がせた凶行を行うおっさんになっているのかもしれない。そんな恐怖がここ最近募っている。

 

独身であるのなら、死に場所とか死に時とかを自分で見定めなければならないのかな、とか思う。世を騒がせた凶行に走ったおっさん達はどこか冴えていないような気がする。それはまるで若い頃の荒々しい記憶を武勇伝として語る元ヤンキーのおっさん達とは真逆のようだ。あ、あおり運転のボクシングおじさんは若い頃もとある視点で見てかなりイケイケだったように見受けられますが…

 

若い頃に荒く過ごしたもん勝ちなのでは…?とか、そんなことを、冴えない凶行おじさん達を見て感じなくもない。何より、女性に壊滅的にモテないし。そんな凶行を、そんな無駄なテロをするのなら、自決した方がまだよほどサマにはなっていたのでは…?とか。

 

で、自分がこのまま年老いたら、どうやら冷静に考えて冴えない凶行おじさん達と同じ轍を踏む可能性の方が高そうな気がしている。元ヤンキーの武勇伝おじさん達みたいな暴力、他者に振るってみてえよなあ…!!

 

振るわれた側として、彼らがその瞬間、気持ち良さそうだったことは何となく覚えてる。本当に気持ち良さそうな顔をしていたね。僕は司法が存在していなければ、迷わずお前の肉に刃物を刺していましたよぉ…

 

なぜ最近こんな鬱々とした気持ちになるのだろう。30歳になって、なんだかもう下るしかなくなったからなのかな。人生の中で今が一番スポーティーに過ごしているけれど。

 

私の中の、いわゆる男らしさと言うものが、怯えた子犬のようにあたりを吠え散らかして走り回りながら、大きなシーソーの端と端をいったりきたりしているような感覚がある。

 

私はずっと、もっと男らしくありたかった。けれど、その「男らしさ」が何なのか、未だによくわからない。それは無作為な暴力の象徴だろうか。いきり立つ男根であろうか。女体を弄ぶ行為の一連であろうか。

 

ずうっとよくわからない。私は男なのだろうか。股間に男のものがついているけれど、私は男なのだろうか。股間に男のものがついているだけの肉と骨で出来た何かであって、それ以上のものではない気がしている。少なくとも私と言う自我は、特に私自身を男だと感じていることもない。ただ、「あなたは男だ」と書かれた紙切れを手にして、オロオロと困惑しながら人生を歩き、人間社会をうろついているだけのような感覚である。

 

自我は、人生の中で遭遇してきたありとあらゆる人間達の人格のトレースの集合体であるような気がしている。だからいま、しきりに「私、私」と叫ぶ私は私では無くて、これはとある動物の鳴き声以上のものでは無いような気がしている。

 

どんどん自我と呼ばれるものが蒸発していくような感覚だし、私は確かにそれを望んでいる。日々の仕事を穏やかにこなして、いつもがいつもと変わらない、平穏な日々を送るためには、自我だとか感情と言ったものは、真っ先にいらない、邪魔なものだと感じてる。たとえ明日、何かの拍子で突然壊れて即死する可能性があったとしても、私は単なるロボットでいたい。だから、私はロボットのように過ごすように心がけている。けれど、上手くいかない。感情はどうしても波打つし、心はどうしても膨張と収縮を繰り返す。

 

その先に見出すのが、死という結論。それは結論であり、現象である。死そのものはなんてことはないが、死に付随する様々な苦痛と不自由が怖い。この点に関しては人は皆、私と同じように感じていると思う。

 

悲しみも寂しさも無い。ただ、恐怖と絶望がある。焼いてない食パンに無造作に塗りつけられた、溶けてないバターのように、それらは私の上に、無骨に、無愛想にのしかかる。重たい。

 

日常とは何だろう。日々とは何だろう。生活とは何だろう。それは苦痛という確かな実感を伴った夢のように思えてくる。苦痛を乗せた夢は夢でなくなり、日々として、日常として発現する。

 

人間たちが打ち立てた欲望のオブジェに追随するだけの人生。