肉と野菜が無限に盛られたラーメンを食べたい

私は独身だ。いまは30歳で、このまま10年、20年と時が過ぎたら、世を騒がせた凶行を行うおっさんになっているのかもしれない。そんな恐怖がここ最近募っている。

 

独身であるのなら、死に場所とか死に時とかを自分で見定めなければならないのかな、とか思う。世を騒がせた凶行に走ったおっさん達はどこか冴えていないような気がする。それはまるで若い頃の荒々しい記憶を武勇伝として語る元ヤンキーのおっさん達とは真逆のようだ。あ、あおり運転のボクシングおじさんは若い頃もとある視点で見てかなりイケイケだったように見受けられますが…

 

若い頃に荒く過ごしたもん勝ちなのでは…?とか、そんなことを、冴えない凶行おじさん達を見て感じなくもない。何より、女性に壊滅的にモテないし。そんな凶行を、そんな無駄なテロをするのなら、自決した方がまだよほどサマにはなっていたのでは…?とか。

 

で、自分がこのまま年老いたら、どうやら冷静に考えて冴えない凶行おじさん達と同じ轍を踏む可能性の方が高そうな気がしている。元ヤンキーの武勇伝おじさん達みたいな暴力、他者に振るってみてえよなあ…!!

 

振るわれた側として、彼らがその瞬間、気持ち良さそうだったことは何となく覚えてる。本当に気持ち良さそうな顔をしていたね。僕は司法が存在していなければ、迷わずお前の肉に刃物を刺していましたよぉ…

 

なぜ最近こんな鬱々とした気持ちになるのだろう。30歳になって、なんだかもう下るしかなくなったからなのかな。人生の中で今が一番スポーティーに過ごしているけれど。

 

私の中の、いわゆる男らしさと言うものが、怯えた子犬のようにあたりを吠え散らかして走り回りながら、大きなシーソーの端と端をいったりきたりしているような感覚がある。

 

私はずっと、もっと男らしくありたかった。けれど、その「男らしさ」が何なのか、未だによくわからない。それは無作為な暴力の象徴だろうか。いきり立つ男根であろうか。女体を弄ぶ行為の一連であろうか。

 

ずうっとよくわからない。私は男なのだろうか。股間に男のものがついているけれど、私は男なのだろうか。股間に男のものがついているだけの肉と骨で出来た何かであって、それ以上のものではない気がしている。少なくとも私と言う自我は、特に私自身を男だと感じていることもない。ただ、「あなたは男だ」と書かれた紙切れを手にして、オロオロと困惑しながら人生を歩き、人間社会をうろついているだけのような感覚である。

 

自我は、人生の中で遭遇してきたありとあらゆる人間達の人格のトレースの集合体であるような気がしている。だからいま、しきりに「私、私」と叫ぶ私は私では無くて、これはとある動物の鳴き声以上のものでは無いような気がしている。

 

どんどん自我と呼ばれるものが蒸発していくような感覚だし、私は確かにそれを望んでいる。日々の仕事を穏やかにこなして、いつもがいつもと変わらない、平穏な日々を送るためには、自我だとか感情と言ったものは、真っ先にいらない、邪魔なものだと感じてる。たとえ明日、何かの拍子で突然壊れて即死する可能性があったとしても、私は単なるロボットでいたい。だから、私はロボットのように過ごすように心がけている。けれど、上手くいかない。感情はどうしても波打つし、心はどうしても膨張と収縮を繰り返す。

 

その先に見出すのが、死という結論。それは結論であり、現象である。死そのものはなんてことはないが、死に付随する様々な苦痛と不自由が怖い。この点に関しては人は皆、私と同じように感じていると思う。

 

悲しみも寂しさも無い。ただ、恐怖と絶望がある。焼いてない食パンに無造作に塗りつけられた、溶けてないバターのように、それらは私の上に、無骨に、無愛想にのしかかる。重たい。

 

日常とは何だろう。日々とは何だろう。生活とは何だろう。それは苦痛という確かな実感を伴った夢のように思えてくる。苦痛を乗せた夢は夢でなくなり、日々として、日常として発現する。

 

人間たちが打ち立てた欲望のオブジェに追随するだけの人生。

 

毎日欠かさず走るのなんのためやねん

最近、お金と女性に対する欲望が凄まじい。そして、その自身に湧き立つ不穏な欲望の現れに驚きつつも、それを鎮めようとして、私の生まれもったネガティブな性格もメキメキと成長していく。おかげで近頃は気分が良くない。鬱々とした気分である。

 

このような精神状態になるのは本当に自分で良く理解できると言うか、加齢とともに健常で一般的な社会人になろうと理性が心がけていく一方、思春期にイジメられて過ごし、その後も他人からの抑圧に抗い通すことが出来なかった経験を今でも忘れられなくて、動物的な本能のようなものが、いまになってグツグツと、かつて無数の他者に抑圧されてきた屈辱に対する怨念をマグマのように煮えたぎらせ、復讐の義なのかそれとも単に魔が差しているのかわからない、何とも荒々しい心持ちになることが少なくない。

 

まあ要するに陰キャ特有のものなのだろうし、だからお前はモテないのだと自分で自分に言い聞かせている。

 

一年近くジョギングしてて、軽い筋トレもしてて、さらに最近は軽い糖質制限もしたりして、かつて肥満のお手本のようであった身体はいまでは引き締まり、と言うか小学六年生の頃より体重が減っているが、てか小学六年生の頃と今でイーブンな体重の比較が出来るとかチビなのでは。チビである。

 

最近思い知っているが、ポルノとは完全なる一種のファンタジーである。例えば、めちゃくちゃ可愛い女性と1日中、ゴムをつけずに好き放題セックスが出来るとして、その状況を現実で体験したら、本当に素晴らしいだろうか?

 

せいぜい2時間楽しめれば良い方なのではないだろうか。どうせそのうち身体は疲れてくるし、精神もその女性に対する大小の気遣いにより疲弊し、3時間も経とうとする頃にはその状況は単なる苦痛にしかなっていない可能性が、決して低くない。もう走りたいだとか、そろそろ帰宅して筋トレしたいだとか、なってくるだろう。

 

実感をもって体験できないこともまたファンタジーなのだろう。職場には多数の、彼女らとセックスをすることを想像すれば難なくチンコが勃起する程度の女性達がいるが、私は妄想を一向に実現へ向かわせようとはしない。1にリスク、2にリスク、3,4にリスク、5にコスト。

 

リフクテイキングな人生を選択するのなら、テイクするリスクは吟味とか精査とかしようの委員会がたぶんこの世にいくつかあるよね。

 

停止した感情機能の300mほど後ろの方で、本能らしきものは滾り、諦観のようなものはそれをたしなめている。どちらにしたって。

 

お金のために働かざるを得ないから私は支配されている。家賃を払うために、年金だとか、住民税だとか、ね。そして、言葉に雁字搦めにされている。言葉から逃げたくて、こうして言葉を意味もなく投げ捨てている、私は何がしたいのだろう。

 

肉体からも、性別からも逃げられない。それは監獄であり、或いはシェルターである。自由な世界を歩き出せば、1秒で他人に殺害されるのであろう。

 

そろそろ良いだろう。この魂を、肉体から、精神から解放してみたら?と、私の中の誰かが言うような気がしている。

 

確かに良いかも。この魂も、肉体も、精神も、言葉も、どうせハナから私のものではないのだし。

 

この30年間ずうっと頭の中の脳みその中に存在し続けていた私と言う存在、それが本当は存在していないことには気がついていたつもりだが、だからと言ってどうすると言うこともできない。今日の私がサラダを食べたからそうなっている私なら、明日は肉ばかり食べれば、明日の私は今日の私では無い。しかしながら、1秒毎の自我の連続性が、サラダの私と肉の私を断絶しないのだ。

 

金、成長、永続、恐るべき資本主義社会。共産主義だって同程度には恐ろしいさ。あな恐るべき人間社会。私の目の前に立つお前は私であり、私はお前だ。そして私は私ではない。ただそれだけのこと。ただそれだけのことを、気の遠くなるほど長い年月、1秒毎の連続性で紡いできたのだ。人類は音楽か、人間社会とはオーケストラか。

 

死に行くために死に行く死に幸あれ。

座ると音の鳴る椅子に無限兆回座るこども

非モテを自称することは、或いは自身を卑下することは、社会に参画するにおいて、何ともリーズナブルな、と言うかチープな名刺代わりのようなものなんじゃないかと思ってきた。社会に参画するということは、無限のような数の他人に関わることになるわけだけど、そこで自らを非モテだとか無能だとか自己卑下しながら他人と関わりを持とうとすることは、もうその時点である程度の社会性を有しているんじゃないのかな。みたいな。

 

私も昔は非モテだとか無能だとか自己卑下して他人と関わっていた。今となれば、それは単なる事実であって別に自己卑下でも無いような気もするけれど、まあ、それはそれで他人と数言分くらいの会話にはなったんじゃないのかなと思う。

 

今はもう、自分を非モテだとか無能だとかとして他人に紹介することすら出来なくなってきている。社会性が以前より欠落しているんだと思う。

 

私は単なる人間であって、それ以上でもそれ以下でも無いし、もっといえば私は単なる動物、単なる生物、単なる有機物、単なる存在…となっていって、どうにもこうにもな感じになってきてる。

 

黄金のような夕焼けに、雲が紫色に照らされて、果てしのない草原を、せっかちな風が踏みつけながら走っていく。そして舞い上がった青い匂いを嗅いでいたいし、風そのものを感じていたい。暑くもなく寒くもない。ただ心地良い、気待ちの良い、涼しさだけが感じられる温度で。

 

私はあなたのことが好きなのかも知れない。私はあなたのことが好きなのかも知れない。私はあなたのことが好きなのかも知れない。私はあなたのことが好きなのかも知れない。私はあなたのことが好きなのかも知れない。

 

これは1人に対して5回分では無くて、5人に対して1回分である。私は特に誰でも良いのだ。誰でも良いのだと言うほど誰でも良いわけでも無いのだけれど。例えば、ボストロールみたいな誰かはとても嫌である。

 

異性の誰かに対してロマンティックラブな心持ちで接することは、もしかしたらとても簡単なことなのかも知れない。いや、それ以外の他人に決して知られないようにすることとか、ロマンティックラブがロマンティックラブ足りえるための十分な演出性を要した各々の舞台装置に対する出費をなるべく低めにして節約することとかを考えると、めちゃめちゃ難しいのかも知れない。

 

私は何が言いたいのだろう。

 

言いたいことなんて何一つない。

 

ただ、言葉を紡ぐことを義務付けられている。ただただ、こうして何かの媒体に具体的な文字の羅列を表出させることはおろか、自分の脳内で何かを考えるときにさえ、言葉を紡ぐことを義務付けられている。そして、発した言葉の数だけ、羅列した文字の数だけ、私は死んでいくし、また蘇っていく。それは一度吐いた吐瀉物をまた口に戻す行為なのか、或いは、また一つ見たこともない絶品料理を口にする素晴らしい体験なのか、全く見当もつかない。

 

私が言葉に支配されているのなら、私は人間社会から逃げ出すことは出来ない。私の生活が基本的にお金に支配されていることと同じことだろうか。全く何もわからない。

 

私は生きている。ただそれだけ。

 

言葉も文字も捨てたいような気がしてる。性別も肉体も捨てたいような気がしてる。でも、ダメな気がする。ダメなんだ!こんな訳のわからないことをほざいていないで、もっともっと仕事を頑張って、お金を稼いで、異性にもアプローチしてちゃんと結婚をして、一人前にならなければならないんだ!

 

一人前とはなんだ?

 

そんなことをいちいち考えていてはいけないよ。

 

普通の人間として真っ当に生きたいのでしょ?

 

普通の人間とはなんだ?

 

そんなことをいちいち考えていてはいけないよ。

 

真っ当に生きたいのでしょ?

 

真っ当に生きるとはなんだ?

 

そんな自問自答も、もはや茶番みたいになってきた。だいたいのところ、その答えは既に用意されているみたいなものなんだ。何故ならその答えは自分自身が用意したものだし、それらの疑問は、その答えがある前提で自分自身が自分自身に対して呈しているものなのだから。堂々巡り。ただそれだけ。

 

人生30年。もっと普通の大人になっているのだと思っていた。ちょうど結婚とかしていたりね。

 

でも、そうではなかった。自分は、自分が考えていたほど無難に当たり前の人生を過ごせる存在では無かったのだろうし、人生は、自分が考えていたほど無難に過ごせるものでは無かったのだろう。人生の部分を人間社会に置き換えても、全く同じです。

 

鬱々としてしまっているなあ。何でだろう。でも、わからないや。考えれば考えるほど、原因に思えるもの、原因に感じられることが無限個あるんだもんね。。。

雨の日にスニーカーで走るのは、スニーカーが濡れるから嫌なんだ

こうして特定の白紙につらつらと自分の心境を吐き出すから、そしてそれを目にするから、気持ちが憂鬱になるのでは?と、過去にSNSをやっていた時のメンタルの乱れ具合を思い出してみたりします。でもまあ、今の自分がなぜ憂鬱かなんて、きっと永遠に分からないものなのかも知れませんね。ジョギングと少しの筋トレで多少気持ちが改善してきながらも、ひょっとして糖質抜いてるのが原因なのかな?とかまあ、可能性だけは無限に考えられます。或いは、自分で強くあろうとするその心意気が原因なのかな、とか。心が不安定な憂鬱になっていて、裏腹に猛烈に女性とセックスしたくなっていて、これは自分なりの男性と言う性の発露であり、あくまで男性的な精神の不安定さの現れなのかなとか。

 

考えれば考えるほど、無限に現れる確かではない何かがたくさん出てきますね。

 

Bring Me The HorizonのMedicineをすごくよく聴いています。Crown The EmpireのBlurry (out of place)も、MZRYも。

 

LINEに残ってる過去に関わりがあった女性に、「元気?」とか送っています。もはやケモノですね。性欲の化身。脳みそがオチンチン。そして結局何にも反応は無くて、彼女たちとのささやかな関係は、ありし日の海に、木の枝で砂浜に描いたつまらない落書きのよう。今はもうとっくに波がそれらをすっかり消し去ってしまった。何も無くなった。綺麗なだけの砂浜に、かつてのささやかな落書きを思い出すのも年を取った証拠ですね。きっと。

 

きっと、これから先、どんどん、孤独に耐えられるだけの体力が無くなっていくのだろうかと感じます。身体つきだけは人生でもっとも締まって筋肉質になりましたけど、それ以外の私には、無常に歩み続けるだけの強かな時の流れに抗う何かなんてありません。

 

本当に、何年ぶりだろう、こういう気持ち。

 

仕事が忙しすぎて死にかけていたのは去年の始めの頃、身を刺す確かに強烈な寒ささえ問題にならなくて、それはそれで精神が終了しそうでした。その時に比べれば、今の私はだいぶ幸せなことでしょう。こんなつまらないことで憂鬱になれているのですから。

 

東京は疲れる。田舎は疲れる。そんなつまらない二項対立はそれでも、結局世界のどこにいても疲れるんじゃないのか?という疑問を投げかけてきて、その疑問はそのまま、むくむくと自分自身の存在の仕方に対する疑問へと成長していくようです。

 

夏になれば秋が恋しくなり、秋になれば冬が恋しくなって、冬になれば雪解けの春を心待ちにし、春になれば本能的な夏を羨む。まるで若くてピチピチな女の子のお尻ばかりを追いかけるおじさんのようですし、そしてその通りに、私は30歳になって、確かなおじさんになったのかも知れませんね。

 

色々とつらつら書きなぐりましたけど、とりあえずのところ、孤独の恐ろしさも加齢とともに成長するものなのだなと感じています。今現在の孤独よりも、この先10年後とかに迎える孤独が恐ろしくて仕方がありません。それはきっと、今の私では考えられないような道へと、私を誘うのかも知れないと感じたりします。日に日に起こる事件のニュースを目に耳にしてみてね。

 

今の私は5年前の私では無いでしょう。それを成長だと捉えたいのですが、10年後の私はどうなっているのでしょう。それを自分でコントロールしたいから今を頑張ろうと思うし、思うような成果を出せない度に憂鬱になるのは、そうした小さな挫折を続けた先にいる未来の自分が、今の私とは全く別の存在になっているかも知れないという想像が恐ろしいから。

 

私はあくまでいつまでも、私でいたいだけなのだけれど、あらゆるものがそれを許し続けてはくれない気がする。だからこそ私は毎日を頑張って生きなければならないのだと思っているし、それ故に朝にはこれから始まる今日が怖くて、夜には目覚めてから始まる明日が怖い。

 

そしてきっと、私が望む私なんて、1秒以上この世界に存在したことは無かったのだろう。万物は永遠に変わらないように見えるし、毎秒以上の速度で変わり続けている気も確かにする。

夏だ!東京だ!えちえちなギャルとえちえちなことしたい!

30歳という節目を迎え、27歳から普通になっていた精神が、再びメンのヘラとなりて、折れようとしているのをひしひしと感じています。主な原因は仕事でうまく結果が出せてなくて、自分に自信を失くしていることなのですけれども。営業だからね…。数字が全てさ…。同じチームメンバーの仕事をサポートしていても、休んでいるチームメンバーの仕事を全力で頑張ったと言えるくらい頑張っても、ええ、やはり数字が全てです。仕方がない。営業職ですからね。それが嫌なら辞めていただいて結構と言うお話に過ぎませんね…。ええ…、つかれた。お客様の無茶振りとかもね。なんというか…、ああ〜〜疲れたな〜〜。仕方がない。成長、し続けていかなければならないんだ。どんな企業だって恒常的な成長を理念に掲げているし、そこに入ってメシを食っていくと言うことは、自分自身もそうならなければならないと言うことだと思っています。成長!!しなければ!!成長!!していかなければ!!

 

ごめんなさい正直つかれてきました。かなり。しのうかな。

 

ジョギングして糖質制限してうまいことシェイプアップ出来て、髪も思い切り短くして、日焼けもして、見た目はイケイケになったぞ!と思いつつも、やっぱり生まれながらの性格ってそうそう変わらないんじゃないのかなあ…って、筋トレしたら人生変わる説を眺めながら、自分なりのやり方で外見を大きく変えることができた自分自身の、昔から変わらないクソ暗い性格を体験してて感じてる。…ていうかそもそも、自分自身だからこそ昔のデブから変われた今の自分に肯定感を持てても、はたから見ればまだまだ単なる、顔だけがデカいただのチビガリだというお話です。筋肉、無いし。その過程をずっと目撃してきた他者なんていないですしね。

 

精神がメンのヘラになっていく一方で、六本木で女性、女性、無数の無限の女性たちと、無限に無限ないやらしい遊び方をしまくりたいという、原始的な欲望もメキメキと出てきて、なんなんでしょうこれは。糖質制限してるせいかな??シロノワールにもかぶりつきたいし。

 

それにしても、人生って辛いですね。今更かよみたいですけど。今なら、SNSで少し前に流行った(今も流行っている?)自己ブランディング力をあげよう!と言う主張が骨身に染みるほど理解できます。それって、何も企業を頼らず1つのタレントとして世を渡れと言うことでなくて、て言うかバリバリ企業の中でもそういう生き方をしろと言うことですもんね。それが企業の中であっても、社会の中であっても、自分自身のブランドを高めていく努力をしていけば、自然と金も女性もご集合頂けるものでしょう。ありがたきことです。ただ、ライバルがあまりにも多過ぎる。て言うか、人生を生きる全ての人達が、結局のところ無意識的にこれをやっていて、目の前の社会って、その結果の累積であるような気がします。

 

要するに我々は、自分たちが無意識的に行なっていることを、改めて明言化して聞かされているだけで、無意識下でやっているんですよねおそらく。とっくの昔から。で、完成された順位が、今まさに目の前に広がっているだけと言うか。啓蒙とはもしかしたら、ずっと前から人々が無意識下で行なってきたことを、明言化或いは明文化して伝えてあげる行為なんじゃ無いかなあ…とか思ってみたり。そうだとすれば、それは本当に価値のある行為だと思います。個人的な感想ですけど。  

 

30歳を迎えての改めてのメンのヘラ。これは20代前半までのそれとは全く比べ物にならない、現実性と言う物質的重さを伴って襲いかかってきますね。本当に。昔と同じメンのヘラのようで、全く違うように思えるのは、そこにポエムが生まれ得ないことです。そこにはもう、圧倒的な「現実」と言う重さしかない。今のままで生きていけるのかみたいな。結婚なんてもう、はるけき遠き…ですよ。

 

或いは、私が再びメンのヘラになったと言うよりか、30歳を迎えて相対する現実、現実の人間社会が、20代に相対していたそれとは全く比べ物にならないくらい強力になっているのはないでしょうか…?

 

これも一つの自然淘汰でしょうかね。いずれにしても、弱い存在は生き抜いていけないとすれば、そして、「強さ」を規定する概念が無数にあれば…。

 

世界は今日もこんなに自由なのに、なぜ私はこんなにも、私自身をこんなにも不自由の中に閉じ込めるのでしょうね。それこそ私自身がわからない。私自身はもっと自由に生きてみたいし、私自身が今のまま、と言うか今よりも社会に沿って実直に生きていくべきなんだと思っています。

 

糖質制限をしているせいだと思うけど、無性にコメダ珈琲のシロノワールが食べたい!!

「東京には何でもあって、何にも無い」みたいな言説を数年前からたまに耳にします。初めてそれを聞いたのはSNS若い女の子からだったかな。それから今に至るまで、そのような意見を断続的に耳にします。個人的にはわかるようなわからないような…と言う心境でしたが、たまたまついさっき見かけた記事を見て、なるほどなあと思いました。

 

曰く、「東京には結果がたくさんあって、人々はそれを選択するだけだ」と言う意見です。例えば、伊勢丹やマルイに服を見に行くだとか、隅田川の花火大会を見に行くだとか、コリドー街や恵比寿横丁でナンパするだとか、相席屋で出会いを求めるだとか…、「どこでなにをするか」まで明確に定められたパッケージが無数にあって、人々はそれを選択するに過ぎないと言うものです。

 

個人的には「それは東京だけに限らないのでは」と思いましたが、でも確かに納得できると言うか、私がキャバクラやソープに完全に飽きた理由とかなり合致するなあと感じました。

 

キャバクラには「女の子と話すことができる」と言う結果…と言うか保障?が、ソープには「女の子とエッチすることができる」と言う結果…と言うか(以下同文)がありますが、確かに私はその、提示されたお金を払えばそのように予め構築された結論に到達できると言う点に飽きたのだと感じます。…まあ、初めのうちはそれでも、「もしかしたら女の子の誰かと、そういったビジネス的な予定調和を逸脱したロマンティックラブが出来たりするのでわわ!?人間と人間だし!」なあんて思ってましたけど、私自身社会で働いている年月もそれなりになってきて、何と言うか、「あっ、ハイ」みたいな気持ちになってきました。まあ、そんなことそうそう無いよね。自分に置き換えてみて数分考えてみても、そう思いました。

 

ただ、個人的には、こうしたことは、東京だからと言うよりかは、時代の変化なんじゃ無いかなあと思ったりもします。だって、「結果が無数にある」なんて、インターネットがまさにそれじゃないですかね。インターネットで検索をかければ、容易に無数の結果が提示されます。それは、「東京 遊び」と検索しようが、「田舎 遊び」と検索しようが、何かしら結果が提示される上では変わらないでしょう。検索結果の多い少ないとか、ピンキリとか、あるにせよね。特に検索結果が出てこないのも、結果の一つでしょうし、それを受け止めて「ああ、ここには楽しみなんて一つもないんだなあ」と思ったのなら、きっと広義的には同じことなのでしょうしね。

 

今日、私は六本木で降りて、それから表通りを避けて、よくわからない路地を延々と歩いていましたが、それもきっと「無数に提示された結果を選択する」ことに飽きたからなのかなあ…と感じています。確かに、意外と楽しかったです。目に入る家々が、あるものは地元でも見かけるような親近感のあるものであったり、あるものはものすごく刺激的なデザインであったり、同じようなマンションがいくつも出てきて「なにこれ!?」と驚いたり、路地の割にやたらタクシーが通る道があるからそっちを歩いてみたり…。「フラフラ歩いていたらメチャ可愛い子に逆ナンされてウフフ」なんて夢のような出来事は起きないですけど、それでも何も考えずフラフラ歩いていた割には、上記の理由でそれなりに楽しめました。

 

まあ…、個人的にはこれって、要するに「人生の過ごし方」に関わる話だと受け止めていて…、つまりどう言うことかと言うと…、「東京に何も無いと感じるのはあなたが何も無いからだ!意識高くて成功している人間はその辺の何も無い空き地にも何か楽しいことを見出す!」みたいな…。そう考えるとハアーとなってきますけど、このことを突き詰めようとすると絶対そういう風になるんじゃないかとは思います。あくまで個人的な素朴な感性に基づいた、あくまで個人的な感想を述べていても、何かしらどこからか突然現れたハンマーに殴られたりするものです。普通に道路を運転しているつもりでも、謎の人物からの謎のあおり運転を受けて、最悪謎に殴られるみたいな、ね…。

 

「夫との結婚を機に都会から田舎に移住したけど、田舎ってこんなにつまらないの!?!?早く都会に戻りたい!!」みたいな、インターネット上の人妻をよく見たりしますねえ。田舎育ちから東京に移ってきた私としては、それは結構同感できるし、かといって、「東京には何でもあって何も無い」にも同感できるような、そんな心境です。

 

要するに私は、自分の人生に対する接し方がそもそも悪いのでしょう。改善しないとなあ。。。

 

あ、東京と田舎を二項対立で語る向きには割と否定的というか、地方都市とかあるやんかと思うし、田舎っつっても市までいけばそれなりに行けんじゃねとか思いますけど、まあ、これは本当にどうでも良い。

 

それにしても、今日は六本木から麻布を路地伝いで歩いてましたけど、少し気を抜くとすぐ別の地域に出てしまいますね。まあ、私が疲れて漫然といつの間にかデカめの道路を直進しまくってたりするからなんですけど、何か、北海道の幌加内思い出しましたね。車で走ってたらいつの間にか幌加内過ぎ去ってるやつ。幌加内そばは美味いぞ!私も死ぬまでには食べます!!

「ドラゴンクエスト ユアストーリー」に対するレビューを見ていて思ったこと。

ドラゴンクエスト  ユアストーリー」に関しまして。

 

私はどちらかというとドラゴンクエストよりはファイナルファンタジー派で、特にファイナルファンタジー5は今でも記憶の浅瀬から深海に渡って強烈に、巨大に、果てしなく、途方もなく残り続ける、人生におけるマスターピースのような作品です。初恋はファイナルファンタジー5のレナと断言して良いでしょう。聖母のように慈悲深くて、それでいて精神的にタフであるというキャラクター設定。ストーリー中でも悲惨な目に遭うことが多いながらも、レナと言うキャラクターに対して悲壮感が先行しないのは、彼女のタフさによる部分が大きいと思います。病気の飛竜を治すために、人間には毒である飛竜草を自ら口に含み、衰弱した飛竜に口移しで食べさせるところなど、当時11歳ですでに激烈に人間と言う名の動物が大嫌いで、腕にペンタグラムや逆十字をナイフで刻み、部屋の壁を真っ黒に塗って悪魔を崇拝していた私にとっては、永遠に忘れられないくらい衝撃的でした。メリュジーヌに攫われても、エクスデスに生家であるタイクーン城を消されても、悲しみに囚われて動けなくなることなく健気に立ち向かう姿は、なんと強く美しい。かよわいだけではない、むしろそれを跳ね返すほどの強さを持っているところが、私がレナというキャラクターに対して激烈にブヒるようになった要因だと思います。ですから私はファイナルファンタジー5をプレイする度に、レナを最強にしようと頑張って彼女を一番に育てようとするのです。しかし、冷静に考えてみた時に、メリュジーヌに攫われてパーティを離脱する期間が何気に短くない関係上、結局バッツを最優先に育てます。

 

話が完全に逸れてガードレールを突き破り崖に落ちました。

 

ドラゴンクエストに関しては、大人になってから楽しくプレイするようになりました。若い頃は経験値やゴールド稼ぎがめんどくさかったこと、ファイナルファンタジーみたいに特定のアビリティや魔法の組み合わせでチートできなかったこと、あとは敵モンスターから逃げづらいことが要因であまりプレイしませんでした。(私には根性だとか甲斐性というものがないのか…)

 

それでも、ドラゴンクエスト4は本当に名作だと思いますし、すごくハマりました。3は今とてもハマっています。1と2もやりましたが、原点かつ王道の安定感、面白みを余りなく味わいました。音楽のヘヴィメタルで言うとアイアンメイデンのような感じですかね。ちなみに余談ですが、個人的に6は難易度が高すぎるように感じることと、職業システムがキャラクターの個性による能力値の差とうまく噛み合っていないような気がして、そんなに評価は高くないです。地底魔城の道中で敵モンスターのやけつくいきでマヒ全滅って、ここ運ゲーじゃないですかね…。まあ、2のロンダルキア抜けた後のブリザードザラキも同じか…。

 

で、映画「ドラゴンクエスト ユアストーリー」の元となっているドラゴンクエスト5ですが、個人的には大好きです。やはり、父親であるパパスとの旅、ゲマとの因縁、奴隷時代、結婚…と、印象的な場面が多いですよね。個人的には息子が勇者ってのも燃えましたね。結局ミルドラースと戦う直前で飽きてやめてしまったのですが、近いうちにスマホアプリ版でリベンジしたいです!

 

で、やっと冒頭の映画「ドラゴンクエスト ユアストーリー」に関してなんですが、何かこう、ネタバレとレビューを見ているだけで、同じ原作を知るゲーマーとして、なんとも悲しく、やるせ無い気持ちになってしまいますね。。

 

私はまだ観ていなくて、観ずして語ることはご法度だとはわかっているのですが、レビュワーの悲しみや悔しさが余りにもダイレクトに伝わってくるもので、書かずにはいられませんでした。

 

この作品の焦点は、「これドラゴンクエスト5である必要あった?もっというと、ドラゴンクエストというブランドでこれやる必要あった?」だと思います。ドラゴンクエスト5を全く知らない方であれば、そういうものだとしてそこそこ楽しめるでしょう。恐らく。私が今からけものフレンズ2を観たとしても、それなりには普通にそこそこ楽しんで観るのでは無いかと思います。私は1を観ていませんから。(…とはいえ、私がけものフレンズ2を観てからけものフレンズ1を観たら、それはそれで私自身がデビルマンに出てくるデーモンと化しそうですが…)

 

色々な方が仰っていますけど、ゲームだとかアニメにおけるメタネタって、もう全然新しくなくて、むしろ手垢にまみれたありきたりなものになってしまってるんですよね。昔売れたブレイブリーデフォルトにも出てきましたけど、正直真新しさなんて感じなかったし、誰かの「どや!この意表をつく展開!」みたいな射精顔が脳裏に浮かんだので、やめてほしかったです。

 

ドラゴンクエストのプレイヤーに、現実忘れてまでゲームに没頭するコアな人たちは殆どいないような気がするのですが、結局のところ、ライトゲーマーからゲームをしない人にまでその存在を認知されている、ドラゴンクエストと言うブランドだからこそ、このような説教くさいメッセージ発信に利用されたのでしょうかねえ。。

 

その辺はネット記事で詳しく解説されていて、私も同意する限りですが、ただただ、愛した作品が侮辱されたような、なんとも言えない悔しさと悲しさを、私もまた感じています。まだネタバレとレビューしか見ていないのに。逆にいまから観に行ったら、納得できたりするのかも知れないなア。

 

とはいえまあ、ドラゴンクエストの映画化なんて、そりゃ皆さん王道を期待するでしょ。ある意味、超絶安パイです。ゲームをそのまんまストーリー通りに映画化すればある程度のヒットは約束されているのですから。それでいて、その実はかなりチャレンジングでしょう。プレイに40時間とか50時間とか普通にかかるゲームを、どうやって映画の尺の中に収めるのか。ストーリーのどの部分を捨てて、どの部分を拾うのか。どの部分を工夫して圧縮するのか。どの部分をクローズアップするのか。数々の名場面を映画でどう演出するのか。戦闘シーンは?呪文は?ストーリーそのまんま映画にするだけでも、かなりクリエイトと言う面でチャレンジングなのではないかなあ。

 

その意味では、予告編はとても良かったと思います。迫力あるシーンもあったし、俳優の演技も思ったより良かったし。個人的には、主役級に本業の声優ではなく俳優を起用している時点で、観に行く気にはなりませんでしたけど。。

 

この記事で伝えたいことなどは特に無いんですけど、兎にも角にも、なんでドラゴンクエストでこのような悲惨な事故が起きてしまったのか、本当に理解できません。ただただ悲しみと悔しさだけが、ネタバレとレビューしか見ていない僕にさえ発生しています。

 

観に行ったら、この悲しみや、悔しさは、多少は癒されるのでしょうか?