とある恋愛感情と希死念慮、および理性と思われるものに関して

このことは私自身にとっても非常に意外な出来事であったことと、どうやら私自身が、過去の記事において自分で書いたことをいとも簡単に忘れ去っているくさいので、いつかまた私がこの記事を目にする時のために、いわば備忘録的に残しておこうか。確かに、人間とは忘れる生き物だし、程よく忘れていかなければとても生きてなどいけないのけれども。

 

はああ、わたしはいま人間なんだけど、マジ人間ってよくわからないや…。

 

とりあえず、私は驚愕した。あらゆる合理性と説得力をもって否定したはずの、自身の内に沸き起こる恋愛感情に、気がつけば理性的なもの、自我的なものが支配されていて、なにかこう能動的に行動を起こしていたのだから。

 

まあ、それは他者から見ればいたって大したことのない、何気ない日常の会話に過ぎないのだけれど、私にはとにかく衝撃的だった。あれだけの合理性をもって否定したじゃないか、それにも関わらず…みたいな、ね。

 

そういう観点で見ると、世の男たちはすごいのかも。私など、たかが何気ない会話を自分からしたごときでこんなに、自分に対するありとあらゆる全てに恐怖し、不信を剥き出しにしているのだから。

 

まあ、これは世の男のみならず、女もそうか。

 

…また、自我という存在が、所詮は経験論的な他者のトレースの集積、あるいは社会規範や道徳の差延、あるいはあくまで借り物である言葉の無数によって構築されたフィクションであることは自分の中では常に思っていたことではあるにしても…。

 

しかしながら、やはりこの恋愛感情に対しては、真っ向から否定するに然るべき理由というか根拠がたくさんある。

 

その恋愛感情が成就して、それで一体なんだというのか。世のテレビドラマやアニメは、そういう際に関しては、恋愛感情が成就するまでをゴールとしてしか描かない。

 

実際のところ、自身が想いを寄せる対象への恋心が成就したとして、それはいわば第1のスタートに過ぎない。その恋愛関係を維持し発展させてゆけるのか?

 

そして維持し発展させていけたとして、第2のスタートは結婚となるのか。

 

恋愛の成就は1つのゴールでありスタートで、その延長線を辿った末の成婚もまた、1つのゴールであり、スタートに過ぎない。

 

ただ、難易度はどんどん上がっていくのだろう。

 

そうしたことは紛れも無い現実であるのだが、現状年収ギリ400万で、仕事に対してもはや疲れ切っていて、酒とタバコを辞められない、そんな、世の、少なくとも東京にいる男性たちと比べてなにかその平均を突出した何かを持っている訳でもない私が、そうした高難易度な事象に対して、どう立ち向かっていくのか。

 

頑張るしかない、やるしかないというところなのだろうか。

 

もしもいま現在、恋愛感情に激烈に支配されて、能動的に行動を起こし始めている私がそのように言うのなら、私はもう私自身に対して乾いた笑いしか起こらない。

 

お前もまた、つまり私もまた、欺瞞の塊…というか混沌の霧に過ぎなかったということなのか。いや…そのことについてはだいぶ前に認識はしていたような…。

 

ああ、よくわからない…。

 

皮肉なものだ。自分のそういう所作に一種の男くささを感じて、嫌悪するのだから。私は、私が嫌いな存在になっていきながら、なっておきながら、それでも私自身を肯定しようともまたする…。

 

まるで救いがないような感覚がある、、、

 

けれど、そうした私自身に対して困り果てた私は、希死念慮に救いを求めた。

 

この希死念慮こそは、私にとっては完璧に近い合理性を有し、私の、生きていることを含めた全てを否定することが出来る。

 

好きという感情には、本当に好きな相手なのなら、自分が好きになるべきではないというパラドックスが存在し得るのではないか。それこそ独身の石油王を紹介して差し上げろ。あ、えっと私がスゲえこの世で成功してるならこの限りではないでしょうけどね。

 

何が言いたいのか全くまとまらない。

 

こんな私が社会人をやっているなんて、何か悪い冗談のようだなあ。。。